多くの愛を。
帰省して5日目、教習始めて3日目。家族と久しぶりに会い、会話をする。さらには小さい頃からお世話になった人に会いに行く。新しい人と出会う。
この3週間ある帰省のうちの1週足らずで、地元で生活していた時によく関わってくれた人の1/3には会えたと思う。会うたびに聞かれることは、
「結局どうするんだ?」
「なんで終わった?」
この2つだ。いろんなことをSNSでまたは直接伝えていたから、この質問になるのは自然な流れ。でもここには大阪ではない、地元だからこその愛があると僕は思った。
例えば、「こんな人もいるし、紹介できるからご飯行こう」「ぜひ見てもらえないか?」「参加できるならしてよ」「考えて見てくれないか」と、これまでの僕を良く知っていてくれるからこそ、どんどんいろんな情報だったり考えを教えてくれる。「ケンタはいいやつやから」のそれだけで多くのことをしてくれる。
7年くらい半年に一度くらしか会えてないのにだ。
嬉しい事であり、本当に感謝しかない。
「なんで終わった?」
この質問は最近だいぶ良くなってきた部分でも僕自身まだ引っかかってる所だ。最初は帰省して聞かれても、はぐらかしてばっかだったけど、それも違うと思って曝け出してみた。そしたら、「見返さないとな」「そんなことがあったんか」とか「つれてこい、説得してやる笑」とか。明るい事をどんどん言ってくれる。
でも1番は全部曝け出して「そうだと思った」と言われた時だった。いろんな理由が考えられる中で、この言葉を発した時だけ真剣な表情で言ってくれた。
SNSでしかその時は知らなかったとしても、なんかこの一言は、急に熱くなるものがあった。なんといえばいいのかわからないけど、なんかグッときた。そのあとに静かに、「やるしかないな」とも声をかけてくれた。
遠くからでも想うとか、相手を想うとか僕は素晴らしい事だと思う。でもそれって、愛がなきゃできないし、その愛ってより長い関係だったり、深い関係でないと築かれない。と僕は思う。
お世話になった人は両親と同世代もしくは上くらいの人ばっかだけど、両親と同じ、またはそれ以上の愛を僕に与えてくれていたんだなと、実感する。
今近くにいてくれる人たちがそうじゃない訳では決してない。注目したいのは《今、ほとんど会えてない》という事だ。本当に何してるか少ししかわからなくても、僕を想ってくれていたり信じてくれている。本当に人として嬉しい事で、感謝してもしきれない事だと思う。
まだまだ僕自身は甘いし、誰かに助けてしかもらってないからまだまだ浅い認識なのかもしれない。でも、これって地元だから生まれる愛なんじゃないかって思う。
僕は愛を持った人間になりたい。
地元とかも関係なく。でも、その地でずっとやれば愛を持つ関係を築く人からしたらそこは地元かもしれないし。
ふと思う教習3日目の午前。午後から技能、学科。しっかり頑張ります🚘
今日も読んで頂きありがとうございます。